相続手続 遺言書作成 死後事務委任 の専門家

長崎を訪問して

8月7日~9日まで、原水爆禁止世界大会・長崎に参加するため、長崎市を訪問しました。今回は、東京原水協北区代表団14名のうち、私は所属する北区民主商工会(民商)の代表として参加させていただきました。

私は、広島市出身で、両親が5歳のときに被爆している被爆2世です。そういった環境で生まれ育ったため、広島原爆については、子どものころからたくさん学んできましたし、前職のNHK広島放送局の仕事を通じて、たくさんの被爆者の証言を聞いてきました。しかし、その反面、長崎原爆について学ぶ機会はほぼ皆無でした。「8月9日11時2分」以上の情報は持っていませんでした。

両親が年を取ってきたこともあり、「被爆者の証言が聞けなくなる前に、長崎のことを学んでおかなければいけない」という想いが芽生えてきたころに、民商の事務局長さんから長崎行の打診をされ、二つ返事で行くことを決めました。

出発日の7日は、朝7時に東京駅を発ち、新幹線、バスを乗り継いで15時に長崎入りというハードなものになりました。長崎に着くとさっそく、長崎市民会館での原水禁世界大会・開会式への参加です。
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ここで、一番驚いたのが、被爆者の谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんの被爆証言です。移動中に資料で見た、背中一面大やけどの少年。当然、この少年はすぐに亡くなったものだと思い込んでいました。ところが、谷口さんはこのやけどの少年だったのです。
谷口さんは当時16歳。郵便局に勤務し、集配の作業をしている際に被爆しました。奇跡的に一命を取り留めたものの背中の大やけどのため、3年7ヵ月の入院生活をおくり、そのうち1年9ヵ月は、ずっと、うつ伏せの状態でいたためにひどい床擦れになり、胸の肉が腐り大きく抉れてしまっているそうです。私の母も被爆した際に左腕に大やけどを負い、その跡がケロイドになっています。当時は塗る薬も乏しく、満足な治療も受けられませんでした。母親の場合は、やけどの跡にかさぶたができるまで1年かかったそうです。谷口さんのやけどはもっとひどい状態で、治療を受けている数年間、どんな苦しみだったろうと想像すると、胸が押し潰されるような思いでした。

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8日は、朝に平和公園、爆心地公園、原爆資料館を見て回りました。ボランティアガイドの篠原さんに案内していただきながら館内を回り、被害の実相を学びます。
長崎に投下された原爆・ファットマンは、当初、小倉を第一目標とされていましたが、天候不良のため投下目標を確認できず、長崎に目標が変更されました。その長崎でも目標が確認できず、引き返そうとしたところ、雲の切れ間から浦上地区が見えたため、原爆を投下したそうです。長崎が投下目標とされたのは、三菱の軍事工場が多数存在していたことが理由だそうです。
広島は、市街地の中心部に原爆が投下され、しかも広い平野であるために広範囲に被害が及びました。これに対して、長崎は街の中心部からやや外れたところに原爆が投下され、さらに街の東西を山に囲まれた谷地の地形であるため、被害がやや限定されているところが特徴です。広島原爆の死亡者数(昭和20年末まで)が約14万人、これに対して、長崎原爆の死亡者数(昭和20年末まで)は、当時の長崎市の人口24万人のうち、約7万5千人、負傷者もほぼ同数です。
しかしとんでもない数です。一面焼け野原の街、黒焦げになった遺体、傷ついた人々、爆心地付近の惨状は、広島の姿と変わらないものでした。

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午後は、学会への参加もそこそこに(内容がいまいちだったので)市内の散策に出かけました。観光気分があったことは否定しませんが、実際に街を歩いて街の雰囲気を感じたいと、行く前から考えていたからです。
お昼時だったこともあり、ちゃんぽん発祥の店「四海樓」に行くことに。その流れで、大浦天主堂、グラバー庭園を見て回りました。
グラバー庭園には、幕末に日本にやってきた商人たちの邸宅や調度品が当時のままの姿で現存しています。歴史好きなもので、「ここで歴史を動かす商談がおこなわれていたんだな」と思うと胸が熱くなりました。しかし、同時に、「どうして当時のものがそのまま残っているんだろう?」という疑問が湧きました。そして、ふとグラバー庭園の展望台から長崎の街を眺めてみると、大浦地区は、市街地の南のはずれにあり、そのやや北に出島や長崎市役所などの港に近い市中心地があり、爆心地の浦上地区はさらに北にあることに気づきました。実際に長崎の地形を見て、本来の投下目標は、長崎駅~長崎港あたりだったのではないかと感じました。その通りになっていたら、被害はもっとひどいものになっていたのかもしれません。

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9日は再び長崎市民会館に行き、原水禁世界大会の閉会式に参加しました。
7日、9日を通じて、日本の全国各地から駆けつけた参加者や海外からの参加者(インドネシアとベネズエラは政府代表が参加)が、核兵器廃絶、平和を訴えるメッセージや運動の報告をおこないました。
ただただシンプルに、核兵器はノーだと。戦争はノーだと。活動は違えど、同じ想いで連帯している人がたくさんいる、特に自分と同じ年代の人がたくさん参加しているということに、勇気が湧いてきました。
しかし、核兵器廃絶への道で大きな課題は、被爆者の高齢化です。今年、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。証言をできる人もどんどん減っています。核兵器廃絶を訴えるうえで、被爆者の言葉以上に強い力を持ったものはないと思います。長崎の被爆者の声を聴いて、改めてそれを実感しました。今後、どのように被爆の実相を伝えていくのか考えていく必要があります。自分自身としては、とにかく、身近な人ひとりひとりに広島・長崎のことを伝えられるよう、学びを深めていきたいと思います。

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